溜息
2005年 03月 08日
ヒカリ
1年前、まだ、エキサイトブログがとても小さかったころ。
1日ざっと見ていれば、だいたいのところは見て回れ、コメントには
どこかで見かけたIDがある、そういう頃。
僕はそのブログを見つけた。
とても個性的なそのブログの文章は本当におかしく、腹をかかえて転げまわるほどだった。
それと同時に、その奥にとても醒めた視点と、どこか世界からその身を離している、
そういう感覚を受ける不思議なものだった。
元々書いていたらしきHTMLへのリンクもあり、そこを辿ってもみた。
重複したものもあれば、そこにしかないものもある。
読んで、また笑った。
当然、人気のブログになり、コメントの数もすごいものになっていったが
逐一返事を返すその姿、他のブログに残していく数多くのコメントを見ていて、
あぁ、単純に文章が好きで書きたいというだけではなく、『人』が好きなのだ、そう思った。
わずかに世界を突き放してみせる姿勢と、『人』が好きだという雰囲気。
一見、相反しそうなこの二つの事象が同居している。
そこに感じる不安定感のようなものが、また魅力として映った。
そのブログがしばらく休むようだ。
しばらくの充電なのか、どこか別に舞台を移すのか。
荒唐無稽であることもまたよしとみえる彼の人のこと。
いらぬ詮索、推測をすることもなんとなくはばかられる気がする。
『なんちゃって』、明日にでもそういうタイトルのまた新しい文章がポストされるかも。
永遠に続くものなど、何もない。
変わること、動いていることこそ、この世界の存在している本質なのだ。
自分のブログも、他のブログにもいつか終わりが来る。
そんなあたりまえのことを今更に気づかされる。
それでもまた、いつかあの強さと儚さ、笑いと寂しさが混沌とする文章を読みたい、
そして腹を抱え、転げまわって笑いたい。そう思ってしまう。
******************************************************
そして堕ちることすらもまた永遠に続けられるわけではないのだと。
いつかまた自分の足で立ち上がり、歩みを始めなくてはならない。
『堕ちる』とはその事実を忘れること、見ないことに他ならないのかもしれない。
1年前、まだ、エキサイトブログがとても小さかったころ。
1日ざっと見ていれば、だいたいのところは見て回れ、コメントには
どこかで見かけたIDがある、そういう頃。
僕はそのブログを見つけた。
とても個性的なそのブログの文章は本当におかしく、腹をかかえて転げまわるほどだった。
それと同時に、その奥にとても醒めた視点と、どこか世界からその身を離している、
そういう感覚を受ける不思議なものだった。
元々書いていたらしきHTMLへのリンクもあり、そこを辿ってもみた。
重複したものもあれば、そこにしかないものもある。
読んで、また笑った。
当然、人気のブログになり、コメントの数もすごいものになっていったが
逐一返事を返すその姿、他のブログに残していく数多くのコメントを見ていて、
あぁ、単純に文章が好きで書きたいというだけではなく、『人』が好きなのだ、そう思った。
わずかに世界を突き放してみせる姿勢と、『人』が好きだという雰囲気。
一見、相反しそうなこの二つの事象が同居している。
そこに感じる不安定感のようなものが、また魅力として映った。
そのブログがしばらく休むようだ。
しばらくの充電なのか、どこか別に舞台を移すのか。
荒唐無稽であることもまたよしとみえる彼の人のこと。
いらぬ詮索、推測をすることもなんとなくはばかられる気がする。
『なんちゃって』、明日にでもそういうタイトルのまた新しい文章がポストされるかも。
永遠に続くものなど、何もない。
変わること、動いていることこそ、この世界の存在している本質なのだ。
自分のブログも、他のブログにもいつか終わりが来る。
そんなあたりまえのことを今更に気づかされる。
それでもまた、いつかあの強さと儚さ、笑いと寂しさが混沌とする文章を読みたい、
そして腹を抱え、転げまわって笑いたい。そう思ってしまう。
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そして堕ちることすらもまた永遠に続けられるわけではないのだと。
いつかまた自分の足で立ち上がり、歩みを始めなくてはならない。
『堕ちる』とはその事実を忘れること、見ないことに他ならないのかもしれない。
by totoex
| 2005-03-08 09:52
| 連想の日々